2005年 04月 27日

すずらん日記・・・・26

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12月 18日  木曜日
先生にクリスマスカードを作るのに画用紙を下さいました。
私はサンタクロースのおじいさんを他の紙に書いてそれを切って
だしめんで手の袖、帽子の回りや帽子のてっぺんとかにつけました。
そして裏に針金でバネを作ってひっつけました。
そして向かいがわにメリークリスマスとだしめんで書きました。
そうして前の絵を飾って出来上がりでした。
バネをつけたのは開けた時にサンタクロースがいごくからです。

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工作は大の得意でした。
先生から「図画工作の時間は目が光ってる」と言われていました。
でも、国語は苦手だったみたいですよね・・
 ※「いごく」=動く
 
このカードはよく憶えています。

幼い私は日記にこのカードの説明を書くのが一生懸命だったんでしょう。
細かく説明できてますけど肝心な表紙(前の絵)の絵はなんだったのかな?

※だしめん・・・はどんなダシのきいた麺なのだろうと想像されますが「脱脂綿」のことです。
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# by nek0maru | 2005-04-27 04:06
2005年 04月 06日

すずらん日記・・・・25

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12月 16日 火曜日
今日の夜ご飯はスパゲテーとシチューでした。
スパゲテーはケチャップとチーズの粉をつけて食べました。
弟と私だけ早く食べました。
シチューは何も入れないで食べました。
皆が後食べるときはもう食べていましたがもう1杯おかわりをして食べました。
とっても美味しかったです。

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久しぶりの更新で日記のNOも忘れていました。
新年度も始まり姉妹ブログの方が忙しくなりました。
http://nekomaru.seesaa.net/

夕食は子供の好きそうなメニューですね。
当時、スパゲティーといえばほとんどがケチャップ炒め。
子供ながらにパルメザンチーズは珍しかった。

子供の頃大変な大食で親戚から「食い頭」だの、「ごくつぶし」だのと言われていました。
(大食は20代前半まで続きますが・・・)
忙しい両親は夜も更けての夕食。その時間に私もシチューをもう1杯・・・
ふっくら体型の幼少時代はやはり大食に原因が・・・

少し思い出しました。
そう・・そうとうの大食でした。まだまだ幼い頃・・私の記憶にないほど幼い頃から、
母の話では物食いは良かったそうです。

物心ついた頃・・記憶では良く食べていたのを思い出します。
小学生のころ・・おそらくこの日記をつけていた年頃・・コッペパンを15個食べてお腹を壊した事がありました。お祭りの日忙しいからと母が卵とハムをサンドしてくれたものでした。
みかんは1日10個ぐらい食べていました。
母が「もう食べるのやめたら?見よったら恐ろしゅうなる・・」と言っていました。

私にとって大食は「気を引く方法」だったのかもしれません。
親に注目して貰いたかったからかもしれません。
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# by nek0maru | 2005-04-06 01:22
2005年 03月 01日

すずらん日記・・・・24

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8月 2日
ありの大群が戦争をしていた。
死んでいるの逃げているの戦っているの たくさんいた。

色染めをした。
赤、青のしるが出た。面白かった。

花火を見た。赤、青の色が出てとてもきれいだった。
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皆さんは幼い頃海苔の瓶に土を入れて蟻を飼ったことはありませんか?
ガラスの味付け海苔の瓶に土を入れ、事情があって引越ししているのであろう蟻の行列を根こそぎ採集して瓶に詰め込んで蟻の生態を観察すると言う飼い方です。

私は蟻の大群を見つけると当分観察した上で海苔の瓶に詰め込んでいました。
事情はどうあって引越しを決め込んだのかわかりませんが借金に追われてという事情では決してないことと思います。

引越しは働きありを中心に行なわれていました。多くの働きありは真っ白い卵や繭をくわえて行列のまん中をせっせと運んでいました。
海苔の瓶の中でアッというまに巣を作っていました。

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色染めはおそらく露草の花びらを絞ったものだと思います。時期的にもそうです。
青色のきれいな汁が絞れました。
赤色は何の花で取ったしるだったのでしょ?

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花火は当時シャッターの閉まった商店街の店先でしていました。
きれいな色の花火もいいし、線香花火は思いで深い物がありますけど私は「蛇花火」が好きだったなぁ~。

え?最近蛇花火ないの?

チョークを1センチくらいに切ったようなもので色は黒い灰色。
火を付けると火花がつくのではなくて煙がもくもくと出て黒いチョークみたいなものがニョロニョロとへびのように伸びてくるんです。それって灰なんですが。
子供の頃も不思議でしたが今でも不思議です。

煙が結構すごかったのでご近所さんには随分ご迷惑をかけたみたいです。
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# by nek0maru | 2005-03-01 23:42
2005年 02月 16日

すずらん日記・・・・23

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7月29日 火曜日

今日、いとこのやっちゃんとしんちゃんが来ました。
マコと私としんちゃんとやっちゃんで絵を書きました。
私が7票、やっちゃんが8票、しんちゃんが2票、マコが2票でした。
私のはじめのは、「学校の景色」というので2番目は「ボロタンの反対タン」というのでした。
やっちゃんの1番目は「リス君」2番目は「怪我したタコちゃん」でした。
しんちゃんは「ロボット」と「お母さん」でした。
弟は「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」でした。
みんなとてもいい絵でした。

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皆でお絵かきです。
マコ=弟のまことのことです。
やっちゃんとしんちゃんは私の母の姉の子供で兄弟です。
やっちゃんは私より1つ年上。しんちゃんはまことと同級生になります。

二人はとても親思いの兄弟で特に下のしんちゃんは、お母さん思いでした。
それぞれが気に入った絵を披露したのでしょう。
私の書いた「ボロタンの反対タン」というのが見てみたかったですが・・・(想像がつかないもんで・・・)
皆に見せて評価を戴いたのでしょう。しんちゃんと弟は私たちより歳が5歳も下です。
票が少ないのも仕方ないかな・・・

弟と同じ歳のしんちゃんは実は小学校に上がる前に亡くなってしまいました。
まだまだ子供だった私たちだけじゃなく、幼いしんちゃんの死に悔し涙を流す者は当然のごとく奥歯をかみ締めて悲しみました。いつまでも涙が止まりませんでした。
 
1月1日が命日になりました。
同じ年の3日、しんちゃんのお葬儀が終わった日におじいちゃんが亡くなりました。
涙は枯れ果ててしまいました.

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ボロタンの反対タン」とは当時テレビで放映していた「ロボタン」のこと。
おそらくその絵をもじったボロ絵だと思います。(改めて見てみたいものです)

その頃は銭と(大衆浴場)に通っていたものでそこの白黒テレビで見ていたのを思い出します。
そうそう、歌はぼや~つとですが最後まで歌えます。
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ロボタンの歌

♪ろ・ろ・ロボタン う~ひゃひゃのきっきっき
僕はロボットロボタンだい!♪
胸の勲章♪きん・♪こん・♪かん♪
かっこいいだろいかすだろ!♪
僕はロボットロボタンだい!♪

ぼっち・ぼっち・ぼっち・ぼっち・うっひゃっひゃ~うっきっき~♪
ロボタンの勲章なんかオンボロだい!♪
ぱんぱかぱ~~~ん!!♪
 う~ひゃひゃのうっきっき♪
グ○コ~○リコ~グリ○~の「ロボタン」♪
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http://www.tms-e.com/library/old/tv/data/t_robota.html
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# by nek0maru | 2005-02-16 00:16
2005年 02月 05日

ありがとう・・・

随分落ち着いたから少し悲しい日記をつけようと思う。
1月29日の朝、私の叔父が他界した。

去年の5月くらいから不調を訴え約半年の命だった。

病名は「胃癌」

手術後、まさかの奇跡を願えるほどの回復を見せたが去年の11月下旬に再入院しそのまま自宅へ帰ること無く他界した。

叔父は生涯独身だった。
そのため若い頃から私の母(姉)を訪ねよく遊びに来てくれていた。
我が家は商売をしているため忙しいといっては母の実家に預けられていたものだから叔父は大好きだつた。
お泊りのときは、姉とどちらが叔父と一緒に寝るかじゃんけん勝負で決めていた。
私はそのジャンケンによく負けていたような気がする。
やさしい叔父は「みーちゃん、おじちゃんとねようのー」と言ってくれていた。

幼い頃、実は私は注射が大嫌いだった。
小学校に入学する前は町のお医者さんで予防接種を受けなければならなかった。
どんなになだめすかしても泣きじゃくる私を抱え込んで病院に連れて行ってくれたのはいつも体格のいい叔父だった。
今思えばさほど注射が嫌いだったわけではない。おそらく意地で行きたくなかったのだと思う。注射の痛さで泣いていたんじゃないと思う。ただおじちゃんが抱きかかえて病院に連れて行ってくれるから安心出来ていただけだと思う。
両親が「アイスクリームを買ってあげるから・・」とかいくら機嫌をとっても結局行かなかった。
叔父が連れて行ってくれるまで。

私が交通事故に遭ったとき・・その時も叔父が居てくれた。私が小学校に入学する前だった。
車にはねられ立ち上がった私をドライバーが車に連れこんで当分市内を走った。
女性が一人同乗していた。
「お嬢ちゃんは家はどこ?」と尋ねられ不安いっぱいで泣きじゃくっていた私は近所のケーキ屋さんでケーキを買ってもらい家まで走った。
母の安堵する顔、おばあちゃんは「よかった、よかった」と何度もおでこを撫でてくれた。
叔父はなぜか警察の取り調べを受けていた。・・どうもドライバーと勘違いされたらしい。
そのことはその後もずーっと不服げに話していた。

警察の勘違いのあと私は叔父に連れられて病院に行った。
夜もふけていたので「ねむい・・・」と言う私を不安に思った叔父は私の頭を強く抱きしめて「みーちゃん!寝たらいけん!」とあわてて病院へ連れて行ってくれた。

たくさんの叔父との思い出と、やさしさはいつもありがたいと思いながら面と向かって「叔父ちゃん、ありがとう!」といったことは無かった。照れくさくて言えなかった。

おじちゃんの亡骸との最後のお別れで小さな声で「おじちゃんありがとう・・」と言えた。

  不思議なことに母の実家に行くとおじちゃんはいつも居るんです。
  居てくれるのを感じています。
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・・・おじちゃん・・ポメラニアンの「ボビー」を大変可愛がっていたっけ・・・
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# by nek0maru | 2005-02-05 00:45